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■ご挨拶
日本のラッピングである水引。
実は水引の起源は日本ではなく中国にあるといわれています。

日本の飛鳥時代(592年-710年)、607年に、隋の国(中国)へ小野妹子と言う「遣隋使」を大使派遣しました。彼が帰国に際して隋の国(中国)から贈られた品々にくくりつけられていた麻紐が日本の水引の起源と言われています。

それから日本は、贈答品を包む際は、和紙で包み、紅白の水引で丁寧に結び、
贈る心を相手に伝える手段のひとつとして水引を利用してきました。

1915年頃まで水引を使った日本のラッピングは、平面的な形でした。
その平面的だった水引を津田左右吉(加賀水引初代)が劇的に美しいものに変えました。津田左右吉は、鶴亀や松竹梅など立体的な水引の結び方を考案し水引を芸術の域にまで高めました。芸術的に美しく包んだ贈答品は、相手に気持ちをより伝える事ができます。

中国が起源である日本の水引は、人と人を結ぶ役割を古来から担ってきました。
今回、中国の地で進化した水引をお見せできた事を光栄に思います。






■水引とは
水引(みずひき)は日本の祝儀や不祝儀(婚礼や葬式など)の際に用いられる飾り紐の事です。素材は、和紙を紙縒り状にしたものを染めたり、糸を巻いたり、金紙銀紙を巻いたりしたものです。種類は数百種類あります。水引の名前の由来は、紙縒りにした和紙に糊水を引いて乾かして固める事からつけられたと言われています。室町時代後期に素材が麻紐から和紙の紙縒りに変わりました。日本の侍のや相撲力士の「ちょんまげ」を結ぶ紐も水引です。

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↑水引素材








■水引の使い方
水引は日本人の贈答の場面で使われ、お金や贈物を包むのに使用します。
贈物を和紙で包み、水引きで結び、贈る理由や名前を書く。この3つが基本です。
和紙の包み方(折型)や水引の色の組み合わせにはいろいろな意味があります。

▼あわじ結び(あわび結び)
最高位の水引の結びで、神事・佛事をはじめ、吉凶全ての基本の結びがあわじ結びです。水引細工の多くはこの結びを応用しています。

▼引き結び(輪結び)
あまった水引を切ることをさけて輪にしてしめる。すべて滞りなく丸く納まるように・・・という意味を持ちます。特に婚礼に好んで使用します。

▼蝶結び(リボン結び・花結び)
開く事を目的とした、リボンの結びで水引では本来、この結びはありません。見た目がかわいく、簡単なので近年よく売られています。

▼結びきり
あわじ結びをせず水引を結んだだけで、軽い気持ちでお祝いを包むときに使用します。

▼より返し
大きな品物や重い品物などを結ぶ時に、あわじ結びだけでは頼りない場合により返しを使ってしっかりと結びます。寄りを返す波に例えて、善い事が幾重にも重なるように・・・ という意味をもち、婚礼には使用しません。

▼紅白 : 歳暮・中元・入学・お見舞い等、個人的な用途に用いる。
▼金銀 : 婚礼・会社関連・受賞等、格式張る場合に用いる。
▼黒白 : 通夜と葬儀のみに用いる。
▼黄白 : その後の佛事に用いる。
▼銀銀 : 双銀は水引の陰陽思想と無関係な新興宗教などに用いられる事がある。

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■立体的な水引折型 加賀水引の創生
水引の歴史は古く、中国と日本の贈答品を海賊等から守る目的で、麻で結んだ事が起源ともいわれています。その後長い間は、殿中でのみの使用しか許されず、礼儀作法の流派である小笠原流として厳格に守られてきました。一般庶民に広まり始めたのは明治後期からと云われています。
その一般庶民に広まり始めた小笠原流の水引折型。大正4年(1915年)頃、津田左右吉(加賀水引の創始者)はそれを勉強し、結納業を始めました。しかし、用途別の複雑な決まり通りに折型をきっちりと端正に折り畳むのは、なかなか難しかった。少しでも折り目が崩れたり、歪んだりすればすぐに品のないものになってしまう。水引折型は、その清しく端正な容姿にこそ価値がある。左右吉は、熱心に折型を研究し、繰り返すうちに一つのアイディアを思いつきます。
・・・平たく折り畳んでしまわず、ふっくらとしたまま折り目を付けず、それを胴のあたりでぐっと水引で引き結ぶ。そうすることで、技術的なアラが目立たず、楽に、しかもボリュームのある華やかなフォルムが出来上がる。・・・
今でも受け継がれ使われる、いかにも加賀百万石の雰囲気を漂わせた綺麗な結納品の水引折型は、こうした苦心の末の、いわば逆転の発想によって生まれ完成したものだった。また、こうした立体的な折型には、必然的に、立体的な水引の結び(水引細工)の創始が伴う事となった。今日、全国的に見る水引折型のルーツは、この時期、彼による創案の影響が色濃いのである。
左右吉は、「流儀は?」と尋ねられる毎に、「無茶苦茶流と申し候」と楽しそうに彼は語っていたという。

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↑加賀水引図案集

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↑津田左右吉が考案した折り目を付けない立体的な和紙の使い方と、立体的な水引細工。

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↑立体的な折型と立体的な水引細工の加賀水引の手法でラッピングした結納金

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■加賀金沢から全国へ広まった加賀水引
加賀金沢の水引「加賀水引」が全国に知れ渡ったのは、初代津田左右吉がそれまでの平面的だった 結納や祝儀袋の水引細工・折型を、現代の主流となる立体的な水引細工・折型に仕上げた事によるものです。津田流水引の創始者 津田左右吉は号を「十日坊玄之」とし、 独自の技と品位は皇室献上など数々の栄誉を受けました。二代目梅女の代には芸術分野に於いても高い評価を受け、その津田流水引独自の作風を「加賀水引」として確立させ日本全国に広く紹介されるに至り加賀金沢の伝統工芸として定着しました。100年たった今でも初代津田左右吉の考案した折型や水引細工をベースとして、 結納品や祝儀袋(金封)に用いて製作を行っております。現在は、四代目 宏・さゆみ、五代目 六佑 沙樹 が厳粛な結納飾りを中心に、伝統の中での現代生活に生きる“なじみ親しむ水引折型”として現代の生活に合った形で提案しつつ伝統を守り続けております。


▼加賀水引 初代 津田 左右吉
明治2年4月21日の明治の御一新の頃に、金沢市下新町の金谷宗次郎の長男として生まれる。 金谷家は屋号を金津屋とし、金沢の武家相手の札差(藩政時代の米穀商と金融業を兼ねた倉庫業者)を本業にし、質屋をも兼業する商家。 母は登茂といい、金沢市南町の竹中甚助(前田家能役者)の三女であった。 戦時中のこの頃、男児1人の場合は徴兵免除の特典があるため、子供のいない金沢市十間町の津田左登の養嗣子として入籍し現在の津田となった。 もともとは茶人であり書画をたしなむ趣味人として知られていた左右吉。 大正前期頃、戸水という屋号の研屋次右衛門が見せた小笠原流の礼法・折型に魅せられ、小笠原流水引折型を勉強し始める。 大正6年、橋場町にあった供田呉服店のウィンドウに左右吉の結納飾りが並べられ、友達であった綿谷という大きな八百屋で婚礼があり、左右吉作の結納を使ってもらう。 大正13年11月9日、昭和天皇に内裏雛と具足を献上。 昭和元年、幼馴染の泉鏡花に内裏雛を贈答。 昭和18年、74才で生涯を終える。

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↑加賀水引 初代 津田左右吉




▼加賀水引 二代目 津田 梅
明治40年11月17日、津田左右吉の次女として生まれた。美川町の歯医者に嫁いだが十年で夫に死別し、娘をつれて実家(十間町)に戻った。その後、病気の父(津田左右吉)の面倒を見ながら結納水引細工の跡を継いだ。

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↑加賀水引 2代目 津田梅



▼加賀水引 三代目 津田 剛八郎・千枝
津田剛八郎 昭和3年8月8日生まれ。津田千枝 昭和9年2月17日生まれ。 二代目津田梅の後に続いた加賀水引の三代目は、梅さんの一人娘である千枝と夫の剛八郎。野町に店を構えた。

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↑加賀水引 3代目 津田剛八郎・千枝